LOGIN分家の人間である龍一郎と剣吾が、嵐のような、それでいてひどく静かで不気味な「宣戦布告」を残して去っていった夜。
ペントハウスのリビングは、いつもと同じ間接照明の柔らかなオレンジ色の光に包まれていたはずなのに、空気の密度がまったく違っていた。 私は、冷え切った指先を温めるように、両手でマグカップを包み込んでソファに座っていた。 カモミールティーの白い湯気が立ち上っているが、その香りすら鼻腔を素通りしていくような感覚だ。「……朱里」 隣に座る湊が、私の膝の上に置かれた手に、自分の大きな手を重ねてきた。 彼の指先もまた、微かに冷たさを帯びていた。「まだ、震えているね」「ううん……大丈夫。ただ、あの笑顔が目に焼き付いて離れなくて」 私は、カップの縁から視線を外し、湊の漆黒の瞳を見つめ返した。「剛造さんの時は、敵意がはっきりと形になって見えていたから、怖くても立ち向かえた。でも、龍一郎さんたちは…&h湊の漆黒の瞳を見つめ返す。「あなたが、ここにいてくれるから」 湊の口元が、柔らかくほころんだ。「……ああ。僕が、一生君の価値を証明し続ける。誰の目にも明らかな形にな」「ごちそうさま。朝から甘いセリフを聞かされる身にもなってちょうだい」 詩織がわざとらしくため息をつき、バインダーを脇に抱えて立ち上がる。「私はもう行くわ。本社で法務部の連中と打ち合わせがあるの。……朱里、サロンの仕事、無理はしないようにね」「うん。ありがとう、詩織さん」 ヒールの音が遠ざかり、再びダイニングには穏やかな二人だけの時間が戻ってきた。 トースターのタイマーが、チンという軽い音を立てる。 新しい一日が、また始まろうとしていた。 ◇ 都内の一等地にあるブライダルサロン『Felice Luce』。 エントランスの重厚なガラス扉を押し開けると、百合の花の甘い香りが鼻腔をくすぐった。 柔らかなダウンライトが、大理石の床と、美しくディスプレイされた純白のウェディングドレスを照らし出している。 数週間ぶりに足を踏み入れた職場。 あの騒動の後、ここに自分の居場所が残っているのか、正直不安だった。 だが、スタッフルームの扉を開けた瞬間、その不安は完全に吹き飛んだ。「チーフ! お帰りなさい!」 後輩のスタッフたちが、一斉に駆け寄ってくる。「記者会見、見ましたよ! すっごくかっこよかったです!」「あの週刊誌の記事見た時は本当に腹が立ちましたけど、チーフが堂々と言い返してくれて、スカッとしました!」 次々と掛けられる温かい言葉。 誰一人として、こちらを「金で買われた偽物の花嫁」として見る者はいなかった。「みんな……ありがとう。ご心配をおかけして、本当にごめんなさい」 深く頭を下げる。「何言ってるんですか! むしろ、チーフを指名したいっていう新規のお客様の問い合わせが殺到してるんですよ! 『あんなに自分の人生に誇
「……そう」 短く相槌を打つ。「で、あの二人は今どうしているの?」「泥沼よ」 詩織は冷ややかに言い捨てた。「美咲氏の勤務先には、匿名のSNSアカウントでの暴言や、機密情報に近い社内ゴシップを書き込んでいた事実が通報されたわ。……もちろん、うちの法務部が手を回したわけじゃない。記者会見の様子を見たネットユーザーたちが、あっという間に彼女の裏アカウントを特定したのよ」 詩織の指先が、書類の端をトントンと叩く。「結果として、彼女は会社に居づらくなり、事実上の自主退職に追い込まれた。……拓也氏の方も似たようなものね。顔と名前がネット上に晒されたことで、取引先からの信用は失墜。会社側からも、コンプライアンス上の問題として厳しい処分が下されているわ」「……」 窓の外を見る。 庭の木々はすっかり葉を落とし、冬の冷たい風に枝を揺らしている。「現在、二人は互いを訴え合う準備をしているそうよ。美咲氏は『拓也に無理やり週刊誌に売らされた』と主張し、拓也氏は『美咲の暴走に巻き込まれた』と主張している。……キャンセルになった結婚式場の違約金と、週刊誌からの返還請求、そして九龍からの莫大な損害賠償請求。これらをどちらが被るかで、醜い責任の押し付け合いをしているわ」 詩織はバインダーをパタンと閉じ、眼鏡の奥の瞳でこちらを真っ直ぐに見つめた。「九龍の法務部としては、彼らから一円も回収できるとは思っていないわ。ただ、社会的に完全に息の根を止めるための手続きは、粛々と進めさせてもらう。……報告は以上よ」 ダイニングに、静かな時間が流れる。 かつて親友と呼び、婚約者と呼んでいた二人の、完全な破滅。 それを聞いても、胸の奥には驚くほど何も湧き上がってこない。「ざまあみろ」という優越感もなければ、「かわいそう」という同情もない。 ただ、遠い世界で起きた、自分とはまったく関係のないニュースを聞いているような、不思議な無関心だけ
朝の光が、本邸のダイニングの大きな窓から差し込んでいる。 テーブルに置かれた真っ白な磁器のカップから、淹れたてのコーヒーの香ばしい湯気が立ち昇っていた。 カリッ、とトーストを囓る小さな音が響く。 テーブルの向かい側では、湊がタブレットに視線を落としながら、静かにブラックコーヒーを口に運んでいた。 シャツの袖が軽く捲り上げられ、日差しに照らされた前腕の筋肉の筋が浮かび上がっている。「……今日のスケジュールは、午後に一件、リモートでの役員会議があるだけだ」 タブレットをスクロールする指を止め、湊が顔を上げる。「朱里の方は? サロンに出るんだったな」「ええ。午後から新規のお客様の打ち合わせが入っているの。……久しぶりの現場だから、少し緊張するわ」 マグカップを両手で包み込みながら答える。陶器の温もりが、手のひらからじんわりと伝わってくる。「君なら問題ないだろう。あの記者会見で堂々と立ち回ったんだ、どんなクレーム客よりも余裕で捌けるはずだ」 湊の口角がわずかに上がり、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。「もう、からかわないでよ。あの時は無我夢中だったんだから」「からかってなどいないさ。事実を言ったまでだ」 穏やかな朝の空気が、部屋を満たしている。 そこへ、廊下からカツン、カツンという規則正しいヒールの音が近づいてきた。 ダイニングのアーチをくぐり抜けて現れたのは、タイトなネイビースーツに身を包んだ詩織だった。 手には、お馴染みの分厚いレザーのバインダーが抱えられている。「おはよう、二人とも。……朝食の邪魔をして悪いわね」 詩織は中指で眼鏡のブリッジを押し上げながら、テーブルの空いている席へと歩み寄った。「構わない。何か急ぎの報告か」 湊がタブレットをスリープ状態にし、姿勢を正す。「ええ。……というより、これで最後の一区切りね」 詩織はバインダーを開き、数枚の書類をテーブルの上に並べた。
ボールペンを手に握らせる。「この紙は、私たちがどれだけ不器用だったかっていう『記録』よ。……破ってなかったことにするんじゃなくて、この続きに、新しい未来の約束を上書きしたいの」 握らされたボールペンと、顔が交互に見つめられる。 やがて、その喉の奥から、クックッと低い笑い声が漏れ出した。 笑い声は次第に大きくなり、肩を揺らして本気で笑い始めた。 出会ってから、こんなに声を出して笑うのを見るのは初めてだった。「……ははっ、敵わないな。法務部も真っ青の契約変更だ」 目尻にわずかに浮かんだ涙が指先で拭われ、ローテーブルに契約書が置き直された。 そして、ボールペンが握られ、指差した余白部分に、力強い文字が書き込まれ始める。 走るペン先の音が、静かな部屋に心地よく響く。『第四条 本契約は無期限とし、甲と乙は生涯にわたり互いを愛し、敬い、共に歩むことを誓う』 カチリ、とボールペンを置く音がした。「これでいいか?」 書き足されたその一行を見つめる。 インクの新しい匂いが、鼻腔をくすぐった。 いかにも彼らしい、硬い言葉選び。でも、そこに込められた熱量は、どんな甘い言葉よりも深く胸の奥へと染み込んでくる。「……ええ。完璧よ」 ペンを取り、その下に小さくイニシャルを書き加えた。 契約書が丁寧に四つ折りにされ、再びジャケットの内ポケットへと大切そうにしまわれる。「……この更新された契約書は、僕が死ぬまで持ち歩くことにする」 湊の眼差しは、真剣そのものだった。「スーツを変える時は、忘れないで移し替えてね」「ああ、約束する。生涯、肌身離さず持っていよう」 手が、頬にそっと添えられる。 少しひんやりとした指先が、肌を滑る。 視線が絡み合い、互いの呼吸が混ざり合う距離まで顔が近づく。「……朱里」「なあに?」「愛している。&
ローテーブルの前に歩み寄り、その契約書を見下ろす。 たった数ヶ月前のことなのに、まるで遠い昔の出来事のように感じられた。 相手の素性もよく分からず、ただ見栄を張りたいという目的から始まった、書類上の繋がり。「……今見ると、本当に冷たい文面ね。感情の欠片もないわ」「僕が作成させたものだからな。法務の人間が書くような、血の通っていないただの契約だ」 湊が、ソファの背もたれに手をつき、契約書を見下ろしながら自嘲気味に口角を上げた。「この契約書で、君の自由を奪った。君が危険な目に遭うと分かっていながら、巻き込んでしまった。……あの日、君がこの紙にサインをした時、君の指先が震えていたのを覚えている。僕はそれを都合よく利用したんだ」 湊の漆黒の瞳が、痛みを堪えるようにわずかに細められる。「……湊」 ローテーブルを回り込み、湊の正面に立つ。 視線を真っ直ぐに絡め合わせる。「確かに、最初はそうだったかもしれない。月額三百万円というお金が絡んでいたのも、見栄を張るためにあなたを利用したのも事実よ」 湊の大きな手が、ソファの背もたれを強く握りしめているのが見えた。指の関節が白くなっている。 その手に、自分の手をそっと重ねた。「でも、この契約書があったから、私たちは同じ家で暮らし、同じ食卓を囲み、互いの本当の顔を知ることができた。……あなたがどれだけ不器用で、優しい人なのかを」 重ねた手に力を込めると、強張っていた指先が、わずかに緩んだ。「この紙切れは、私にとって『鎖』じゃなかった。……足元が崩れ落ちそうになっていた私に、あなたが差し出してくれた『命綱』だったのよ」 息を呑む音が、静かな空間に落ちた。「……朱里」「記者会見でも言ったでしょう。私は、過去の愚かな自分を否定しない。……この契約書があったから、今の私たちがいる。この事実を、私は誇りに思うわ」
耳がわずかにツンとするほどの速度で上昇していく密室の中、湊の視線がずっとこちらに向けられているのを感じていた。「……何? 顔に何か付いてる?」「いや。……麗華の言う通り、これ以上のドレスはないと思って見惚れていただけだ。その色、君の肌によく似合っている」 耳の奥がカッと熱くなる。 真っ直ぐすぎる言葉に、どう返していいか分からず、ただ視線を足元の絨毯へと逸らした。 ピン、という電子音が鳴り、エレベーターの扉が開く。 毛足の長いフカフカの絨毯が敷き詰められた廊下を歩き、一番奥の重厚な木製のドアの前に立つ。 湊がカードキーをかざすと、カチャリという軽い金属音が鳴り、ロックが解除された。 ドアを開け、一歩足を踏み入れる。 室内の照明は落とされており、壁一面の巨大な窓ガラスいっぱいに、東京の夜景が宝石箱をひっくり返したように広がっていた。 赤や黄色のテールランプが、動く光の川となって首都高を流れている。「わあ……」 思わず声が漏れる。 靴を脱ぐのも忘れ、窓際へと歩み寄る。 足元の絨毯がハイヒールの音を吸い込み、静寂だけが部屋を支配していた。 ガラスに額が触れそうなくらい近づくと、眼下に広がる途方もない光の粒に、吸い込まれそうな錯覚を覚える。「……あの日も、この景色を見たわね」 窓ガラスに反射する自身の姿。ミッドナイトブルーの生地が、夜の闇に溶け込むように同化している。「ああ。君はあの時、この窓際で肩を震わせていたね」 背後から、低い声が降ってくる。 振り返ると、湊が上着を脱ぎ、ネクタイを外し終わったところだった。 第一ボタンを外した白いシャツの胸元から、鎖骨の硬いラインが覗いている。 湊は、窓際から数歩離れたリビングスペースのローテーブルへと歩み寄った。 そして、脱いだばかりのジャケットの内ポケットに手を差し込む。 ガサリ、と。 静かな部屋に、少し古びた紙が擦れる
見覚えのない、上質な和紙の封筒だ。 拾い上げ、裏返す。 封蝋の代わりに貼られたシールの端に、見慣れた、しかし見たくもない筆跡で、小さくイニシャルが記されていた。『S.K』 志保・九龍(Shiho Kuryu)。 継母だ。 なぜ、志保からの封筒がここに? やはり、朱里は志保と繋がっていたのか。 背筋が凍りつく。指先が震えた。 中を見てしまえば、僕たちの関係が本当に終わってしまう気がした。だが、見ないわけにはいかない。 僕は意を決して、封を開けた。 中から滑り
完全に炭化した紙の残骸が、ボロボロと音を立ててクリスタル製の灰皿へ崩れ落ちていく。 カチャリ、と小気味よい音を立てて、湊の手の中でシルバーのジッポライターの蓋が閉じられた。 オレンジ色の炎が消えた直後の、焦げたインクと紙の匂いが、ホテルの控室にふわりと漂う。空調の微かな風に乗って、黒い灰の欠片が一つ、ガラステーブルの上へ舞い落ちた。 私は湊の胸元に寄りかかったまま、その小さな黒い染みのような灰をじっと見つめていた。 終わったのだ。 剛造が会場でばら撒いた『婚約者業務委託契約書』。私と湊を繋ぎ止め、同時に縛り付けていた絶対的な免
視線の高さが同じになり、黒曜石のような真っ直ぐな瞳が、至近距離で私を射抜く。 その目には、深い後悔と、隠しきれないほどの痛切な熱が満ちていた。「……志保からの手紙と、君の残したメモを読んだ」 その言葉に、私はハッと息を呑んだ。「君が僕を守るために、どれほどのものを一人で背負おうとしてくれたか。……それを知って、僕は自分がどれだけ愚かで、傲慢だったか思い知らされたよ」 湊は、私の手を握る力を少しだけ強めた。「君を遠ざければ守れるだなんて…&hell
彼はスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイも外し、シャツの第一ボタンを開けた少し無防備な姿で、膝の上で組んだ両手をじっと見つめている。 前髪が少し乱れて額にかかり、その横顔には深い疲労の色が滲んでいた。 私が微かに身じろぎをした音に気づき、湊が弾かれたように顔を上げる。「……気がついたか」 掠れた、低い声だった。「湊……」 身体を起こそうとすると、彼がすぐに椅子から立ち上がり、私の背中に手を差し伸べてくれた。 大きな掌の熱が、ブラウス越しにじんわりと伝







